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「大宣教命令」
  マタイによる福音書の最終章では、イエス様の大切な言葉を残している;「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。「いつも」の意味は、すべての日々に、即ち明けても暮れても、始終、一日中である。幸不幸、光と暗さのいかなる時にも私たちと共に居てくださるのである。どんな時にでもである。
★イエス様は十字架にかかり、三日目によみがえられた。そして11人の残された弟子たちに命じられた言葉、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」である。十字架にかかられたイエス様は、すべての人の罪を赦し、死に打ち勝ち、復活された。「良い報せをすべての人に、一人残らず述べ伝えなさい」と命じられた。
★ところで、11人の弟子たちは意志の強い人たちだったのだろうか。イエス様は裏切られ、群衆によって捕らえられたときに、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)と記されている。空(から)になった墓を知り、復活されたイエス様に出会った弟子たちの中には、「しかし、疑う者もいた」(マタイ28:17)とも記している。復活が信じられない、この頼りない弟子たちに、世界宣教の福音のバトンを主は渡されたのだ。
★しかしここで大切な事は、復活の主が、弟子たちといつも「共にいる」と断言していることだ。だから空(から)の墓を見たとか見なかったとか、そして復活を疑う弟子たちがいたとか否かったとかは本質的な問題にならない。弟子全員が、使徒言行録にあるように、聖霊を受けて、みな迫害を覚悟で、宣教の旅に出て行ったからだ。
★「いつも共にいる」との約束は、今も私たちの心に働らいている。世界宣教のバトンは、私たちの弱い手を主が握って、私たち一人一人に手渡され続けている。
「恵みは天の父から」
  「イエスは『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさんはえていた。」(ヨハネ6:10)五千人を超える人々にどうして食事を提供できるだろうか。弟子達はイエス様の言葉を疑った。お金が無い、パンを買う店もない。弟子達の当惑は当然である。
★私たちは限界を感じる時がある。信じることが出来ない時がある。自分の力ではとても解決でない問題に直面する時がある。なぜこんなことが起きるのかと神を疑う時がある。そして、そのような時こそが、全能の神の力が発揮されるときだと思う。そのような危機状態の時こそ、全能の父なる神に、「主よ、どうかこの問題をどうか、解決して下さい、疑う心を赦して下さい、どうか弱い心に力をください」と祈る時だからだ。
★弟子たちは五千人の群衆にパンを与えるというひっぱくした状態にあった。弟子にはその力も能力もない。お金もないし、パンを買う店屋もない。しかし、主からの声があった。「どこでパンを買えば良いだろうか。」声をかけられたのは、イエス様からだった。
★イエス様の言葉に従った時、「人々が満腹した。」(ヨハネ6:12)残ったパン屑は十二の籠にいっぱいになったという。 主の御手からパンは手渡された。天の神からの一方的な恵みにより、群衆一人一人が満腹した。
★困った時には、「主よ、この問題を、この悩みをどうぞ解決してください」と先ず主にお願いしよう。そして、主の導きを信じて、したがおう。