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「天国の招待客」
 ルカ14章の「大宴会」のたとえは、天国に招かれた人のことが書かれている。宴会に先だって招かれた客は、宴会の直前になって全員出席することを断った。その理由は、田畑を買った客、牛を10頭購入した客、そして結婚したばかりの客である。家の主人はそれを聞いて怒った。文脈から宴会の主人は主なる神を指している。
★主人は「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、そして目の見えない人」を招いた。彼らは当時のユダヤ社会からは除外され、社会的交流を阻まれた人たちだった。主人は宴会の空席を満たしたく、町じゅうをくまなく巡り歩き、誰でも出会う人全てを招くように僕に命じた。宴会場は通常は招かれたことのない、また宴会には相応しくない人たちでいっぱいになった。しかし、最初に招待状の出された人は、誰ひとりとして宴会にはいなかった。
★宴会には全ての人が無条件で招待されている。社会的地位であるとか経済的立場には無関係に、罪人も含めてみな招かれている。天国は神様が一方的に招く所であることが解る。全ての人に。差別なく出されている招待状である。大切な事は、言い訳をせず、招待状を拒絶せずに、出席することが強調されている。
★何も捧げる物が無い、とても自分のような貧しい者は彼らの交わりには入れない、そのような者たちを主は招いておられる。「無理にでも連れて」(23節)来なければ絶対に来ることのできない人たちだ。★「まだ席があります」(ルカ14:22)と主人に報告したこの僕の言葉が、この例え話の中心聖句であり、主の御こころである。時代を越えて、今生きる私たちの心に聞こえてくる。
「神の愛、ひとの涙」
  ルカ15章にある「放蕩息子のたとえ話」を読んで、涙の出ない人は居ない。それは、父親から頂いた大切なお金を、全て遊んで使い尽くした息子に示す父親の限りない愛を見るからだ。
★父親は毎日、水平線のかなたを眺めて、息子の帰るのを今日か明日かと待っていた。そして、地平線の彼方に、息子らしき姿を見た時に、思わず老いた父親は走りだした。そして息子を抱きかかえて、ところかまわず息子に接吻を続けた。息子の「お父さん、僕をゆるしてください!」、その叫びは父親の耳には聞こえてこない。ただ嬉しさに息子を抱きかかえる父だった。
★家に帰るやいなや、父親は雇い人に命令する、「最上の着物をもってきて着せなさい、靴を持って来て履かせなさい」。そして父親は指輪を息子の手にしっかりはめた。また雇人に命令した。「良く肥えた子牛を殺すように、帰ってきた息子のお祝いに、楽隊を読んで大宴会を始めるように」。宴会場は御馳走と歌と踊りで一杯になった。
★こんな話があるだろうか。放蕩に身を持ち崩した息子から、息子の為には、出来る限りのことをする父親に話の中心が変っている。放蕩息子が、いつの間にか、息子可愛さに大宴会を整える父親に主人公が代わって居る。しかしここに神の無限の愛を見ることが出来る。
★後半に書かれている、働きから帰って、その状況を見て怒る兄に語った父親の言葉、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか」。この言葉の中に、神の輝く愛が光っている。