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「イエス様が再び来られる徴」
  ルカ21章には、迫りくる終末への天と地への徴(しるし)が書かれている、「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う」(ルカ21章25節)。これらを見る時には、イエス・キリストの再来が近いことを知ると書かれている。この章はイエス様が十字架上の死を前にして残された弟子達への最後の預言である。21章全体を通して、主は恐れ惑う私たちの近くにおられることを教えている。
★降誕節第二週を迎えた。ルカ福音書にはイエス様御誕生のことが記されている。「あなたがたは、布にくるまった飼い葉桶(かいばおけ)の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2章12節)。神の独り子、イエス様の御誕生の徴は、布にくるまった乳飲み子であり、動物に餌を与える飼い葉桶だった。周囲からの偏見と貧しさに苦しんで生きている羊飼いたちのもとに主は来られた。天使に囲まれて、彼らは恐れたが、徴に示された主に出会い、喜びに満たされたと記されている。
★将来への不安は誰の心にもある。突然の変化は私たちの心に恐れを生じさせる。しかし、主は悩みの時にこそ、必ず私たちの心に近づいて来られ、私たちを励まし、力を与えてくださる。
★イエス様は最後の預言を一つの御言葉で締めくくった、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。たとえ地震が起ころうとも、津波が押し寄せて来ても、戦争の噂が聞えてきても、ある日突然の病が私たちを襲ってきても、決して恐れない。御言葉を信じる者には、イエス様は再びこの地上に来られて、私たちは復活の主と出会い、羊飼いのように喜びに満たされるからだ。主の再び来られる日を、たとえ苦しみに出会っても、突然の不幸にみまわれても、御言葉に守られて、耐え忍んで「復活の命」の勝利を得たい。
「マリヤのマグニフィカート」
  マリヤの賛歌はマグニフィカート(ラテン語訳聖書の冒頭の言葉)と呼ばれている。これ以上の素晴らしい、神学的にも深い、そして偉大な賛歌は他には見られないと神学者は言う。ルカ福音書1章46節から始まるマリヤの賛歌は、それほどまでも偉大なのだろうか。マリヤはナザレと言う町の一少女にすぎない。その10代の少女にこれほどの主を讃える賛歌がどうして出来るだろうかと疑う学者すらいる。しかし、その疑いへの回答は簡単である。「神にできないことは何ひとつない」(ルカ1:37)の一語に尽きる。聖霊の力である。
★マリヤは叫んだ、「わたしは主をあがめる」、ここでの崇めるは、原語では主を「拡大する」の意味である。自分は小さくなり、主の姿が大きくなる。自分が低くされて、主が高められる。それはイエス様を信じた人の生涯である。信仰者として、迫害される生涯を送り、殉教の死を遂げる宣教師は、主の姿が大きくなり、自分の姿は消えて行く。主に選らばれた者の喜びは、取るに足らぬ私の名を呼んで神の子として下さったことによる。そして、自分の地位や価値がどんどん小さくなって、神の御名が崇められる。
★福音書全体を人の体に例えると、動脈に流れている血液は、「心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである」(マタイ5:3)の聖句である。心の貧しい者が主の憐みによって生きている。マリヤの賛歌には、「身分の低い、この主のはしためにも」(ルカ1:48)と書かれている。イエス様がこの世に残した財産は何もない。しかし、最も尊い宝を私たちは得た。マリヤの賛歌の如く、「救い主である神を喜びたたえる」(ルカ1:47)者になりたい。