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「大きい信仰、小さい信仰」
  マタイ15章28節には、「あなたの信仰は立派だ」と記されている。この言葉は、娘が悪霊にとりつかれて、ひどく苦しんでいたときに、イエス様のもとに来て「主よ、助けて下さい」と叫び続けるカナンの女に語ったイエス様の言葉である。娘の病は即座に癒された。信仰には立派な信仰、或いは信仰の大小があるのだろうか。
★カナンの女の話は、イエス様がシリア地方に出かけたときのことである。登場した女は異邦人(外国人)であり、ユダヤ人ではない。彼女は、主イエスがダビデの子孫であり、また多くの病人の癒しをこれまで成してきたこと以外のことは何も聞いていないし、知らなかった。ただ、彼女にあったのは、病の娘を何とか治したいという強い願いと、噂で聞いている主イエス以外に娘の病は癒やされないという信仰だった。そして、体当たりでイエス様に近づき、ぶつかったのだ。
★「大きい信仰」とは、神様に大きな恵みを期待することではないだろうか。そして「小さい信仰」とは、主イエスの憐れみと力を過小評価している私たちの小さな心ではないだろうか。マタイ17:20には、「信仰が薄いからだ。もし、からし種一粒程の信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。」と語っている。
★同時に、信仰は求め続けることが大切であることを教えられる。カナンの女は、イエス様から「イエスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」との冷たい言葉を聞いても、弟子達から無関心にあしらわれても、「主よ、どうかお助け下さい」と叫び続けてやまなかった。私たちの信仰にも、この女の示した謙遜さ、そして主の祝福を得るまではあきらめない、求め続ける信仰が大切だと思う。
★イエス様のカナンの女に示された憐れみは、異邦人への人種差別を超越した。これは私たちへの挑戦でもある。神の愛は、愛するに値しないものを愛する愛である。主イエスを信じるときに、このキリストの愛の種が私たちの心のどこかに植えつけられる。そして、その愛は他者との間にある私たちの心の垣根を越えさせる。
「感謝に戻ったサマリヤ人」
  ルカ17章11節に書かれているのは、ハンセン病が癒やされ、イエス様の所に戻ってきたひとりのサマリヤ人の話だ。重い皮膚病が癒やされたのは十人全員だったのだが、そのうちイエス様の所に戻って来て感謝したのは、ひとりのサマリヤ人だけだった。
★生涯には、実に沢山の問題に直面する。病にかかり、家族の問題や人間関係に苦しみ、時には職を失い、神への祈りによる以外には解決できない問題にもぶつかる。聖書は、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と語る。信仰者は神への祈りこそ問題解決の最も確実な処方箋であることを知っている。そして、祈りが聞かれ、抱えていた難問が解決した時には、大きな喜びに満たされる。
★この話に登場した十人の重い皮膚病の患者は全員、「イエス様、憐れんでください」とイエス様に叫び続け、全員が癒された。イエス様は十人全員を祝福したく、皆の帰りを持っておられた。当時は、ハンセン病の患者が社会生活の戻るためには、祭司からの癒しの証明が必要だった。九人のユダヤ人は皮膚病に侵されていた身体が完全にもとに戻ったのを知った時、余りの嬉しさに、癒やしていただいたイエス様への感謝はすっかり忘れ、祭司のもとに急いだ。一方、ひとりのサマリヤ人だけが彼らと別れて、イエス様に感謝したくて戻って来た。
★引き返したサマリヤ人に、イエス様は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語られた。イエス様のもとに戻ったサマリヤ人は、願った以上の祝福を得た。彼は皮膚病の癒しと同時に、永遠の命、罪の贖い、魂の救いを得たのだ。十字架上の主イエスを仰ぐときに、私たちは何をしなくても、サマリヤ人の如く、神の愛に触れて、無償で完全な救いを体験する。神の一方的な恵みである。