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「結婚の意味」
 マルコ10章には結婚と離婚のことが記されている。とりわけ、離婚の問題は、律法に生きるユダヤ人の人達にとっては、大きな議論のテーマだった。そして、それは、現代においても同様である。
★かつてのユダヤ社会においては、女性の権利は著しく限られていた。女性の意志で離婚することは許されず、男性からの一方的な理由により、例えば、家庭生活において女性に何か気に入らなくなったときは、男性の意志だけで離婚は成立した。イエス様は、女性の意志でも離婚できることを認めた点で、当時の社会においては、当時のユダヤ社会の律法と対立した。
★ここで、イエス様が語っていることの中心点は、結婚とは神が決めたことにある。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(マルコ10:6-8)男性と女性の結婚における出会いは、神が二人を合わせたのであり、神の力によって結婚は成立することを意味している。キリスト教式の結婚式においては、司式者は、「死が二人を分かつまで一体である」と宣言する。
★「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人は離してはならない」(マルコ10:9)結婚は神によって結ばれたものであるがゆえに、親を含め第三者が二人の間に入り込むことができない。そして、結婚はキリストと教会の関係と同じであることだと聖書は教えている。
★イエス様の示された内容は、旧約聖書創世記2章24節、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と同一である。創造主なる神は、この御言葉を通して、結婚の意味を、人類創造の初めに示された。
「敵を愛する」
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)、イエス様が弟子たちに語られた、『山上の説教』の最高峰である。具体的には、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。1500歩行くように強いるなら、3000歩行きなさい」(同39-41)、そして、「求める者には与えなさい」と記されている。
★愛の倫理で神の子供達になれるか、なれないかとかではない。主を信じる者は、信仰のみによって、私たちは神の子にすでにされている。「敵を愛し」に使用されている愛は、「アガペー」という原語が用いられている。聖書は愛を二通りに分けている。一つは「兄弟だけに挨拶する愛」であり、もう一つは、「罪のままの人間を愛する愛」、即ち愛に値しないものを愛する愛である。それは神の愛である。
★アガペーの愛は、十字架上のイエス様を見るときに解る。はりつけにした人々を前にして、嘲笑う者たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言って、イエス様は敵を赦された。そして、この言葉に接した人たちが、イエス様の愛を知り、アガペーの愛、「敵を愛する」を実行する人になった。かつての戦時中、日本人を敵と憎んだ米兵ディセェイジャーもこの言葉に触れて宣教師となり、戦後名古屋守山教会を設立して、29年間にわたり、日本人に神の愛を伝え続けた。
私たちの教会を60年前に設立したオフナー宣教師は私たちにイエス様の愛を実行して、天に帰られた。
★イエス様を信じるときに、兄弟や隣人のみでなく、敵意を退けて祈る人になっている。それはイエス・キリストの十字架上において、既に始まっている。「神は愛なり」(Tヨハネ4:8&4:16)の言葉は真実である。神を信じる者には、この神のくださった愛と信仰の恵みに生かされている。